雨森たきび『負けヒロインが多すぎる』

読んだ。

主人公との恋が成就しなかったヒロインを『負けヒロイン』『マケイン』と呼ぶことに多少の違和感がある。ただ、それを除けばヒロインとの出会いと交流が自然に行われていて、適度にギャグも交えつつという理想的なラブコメディ作品だった。

主人公の特技である、『学校の水道水を愛好し、場所によって違いが判る』というちょっとした描写が学園生活への妙なリアリティを感じることができてよかった。

今後、いわゆる『負けヒロイン』というものへの掘り下げと各ヒロインとの恋愛的な進展が見られれば面白いと思う。

時間の流れについて

時間の流れについて考える。

SF小説においては、時間の流れは「過去→未来」というところから一歩進んでそもそも時間は流れるものではないというアイデアが出てくることがある。具体的に言うとトラルファマドール星人の視点。過去と現在未来を同時に視ている存在。生と死を同時に見ていて、おそらく彼らは死を悼むことはない。なぜなら死を見ているだけでなく生も見ているから。

近頃、そういう時間の流れで物事を把握したいと思っている。何かが変わるだろうか。ただ、トラルファマドール星人は時間の流れに縛られていないが、もしかしたら別の流れに縛られている可能性はある。時間ではない、別の流れによってトラルファマドール星人が存在しているのだとしたら、彼らはどこに立っているだろう。

『推し、燃ゆ』宇佐見りん

久しぶりの更新です。

『解釈』することについて。

本作の主人公の推しへの『解釈』について考えたい。単行本P.18にはこうある。

「あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの世界を見たかった。」

読んでいる最中はよくわからなかったが、今では理解できる。推しを取り巻く世界を解釈すること。つまり推しと推し以外の関係性という膨大な情報をもってイデアとしての推しへの解像度(リアリティといってもいい)を高めること。『解釈』には、そういった欲求があるのではないだろうか。本物に近いが決して本物ではない(架空の)推しを作り上げるといったような。

ではなぜファンは解釈を重ねて解像度を高めるのか。

 

ここからは想像だけれど、その解釈が「本物」で「正しい」ものである保証がない、という不安定なところに魅力があるのではないだろうか。推しへの解釈が異なることもあるし、新しく塗り替えられることもある。その解釈へのブレも含めて「推しの世界」として解釈する。

物語の終盤でその『解釈』が揺さぶられることになる。

なぜか。推しのそばには自分よりも解像度の高い解釈する人がおり、その人には絶対に『解釈』で追いつけないと感じたから。解釈のしようがないことが表に出てきてしまった。推しへの愛はゆるがないし、いまだ自分の作り上げた解釈は自分の影と重なっている。それでも解釈に無力感を感じてしまった。そういう理由ではないだろうか。自分はそう解釈した。

『ひきこもりパンデモニウム』壱日千次

 全2巻。同作者の『バブみネーター』から。


 だんだんと湧き上がってくる笑いみたいな、爆笑とまでは行かずとも読んでいてなんか楽しい、みたいなやりとりが欲しいならコレを読むべし。

 悪魔とか天使とか対魔師が出てきて、シリアスな展開があったりなかったりしつつもなんだかんだ楽しい日高見家の非日常。最終巻になってしまった2巻のエピローグが本当によくできていて、これまでの物語の終着点が兄・春太のシンプルな独白に詰め込まれていて最高だった。「いい作品を読んだ」という気持ちが湧いてきたので傑作なのだろう。

『ブギーポップ・ビューティフル パニックキュート帝王学』上遠野浩平

読んだので感想を書く。ネタバレもしていく。

 

ブギーポップ』シリーズ最新作、シリーズ21作目(本にすると22冊目)の『パニックキュート帝王学』。

『パニックキュート帝王学』……シリーズの中でも、というか上遠野浩平の著作の中でもとりわけ変わったタイトルである。「パニック」かつ「キュート」、そして「帝王学」という噛み合わなそうなワードが連なっていて、正直最初見たときは驚いた。

話は末真和子が偶然にも全国模試でトップをとってしまうことに始まり、そこで目をつけられたパニックキュートとともにブギーポップという噂の正体を探っていくという展開となる。パニックキュートを追うカレイドスコープも『ジンクス・ショップへようこそ』以来の再登場。「世界にとって美しいとは何か」、そして「なぜブギーポップはその美しさに相容れないのか」といったパニックキュートとの会話が楽しい。

 

ネタバレすると最初に言ってあるので、もうここからガンガンネタバレすることにする。

今回主に登場するパニックキュートは、実はすでに死亡しており、もう一人がパニックキュートを演じていたということが明かされる。ちなみにマロゥボーンのサングラスを掛ける偽装は、自分はカレイドスコープへのリスペクトだと予想していた。予想は外れた。

かけがえのない存在の死を認められず、本人を装うという設定は最近だと『パンゲアの零兆遊戯』でも見られた。それまで装っていた欺瞞のすべてを取り払ってからのラスト、全力の散り際のカッコよさ(今回は「美しさ」のほうがいいか)が強く印象に残り、ワイヤーでのバラバラも挿絵の力もあってか妙に爽快感があった。やっぱブギーポップ好きだなぁと再確認できたシーン。

今回のキーワードは「美しさ」「皇帝」「支配」という感じだと思う。『螺旋のエンペロイダー』と重なる題材ではあるけども、今回の『パニックキュート帝王学』は"統和機構にとって"の皇帝という話なのだろう。エンペロイダーに出てきたあいつは間違っても統和機構のトップにならないだろうし。

パニックキュート(本物)と末真との会話で、皇帝の責任には「負けを認めることだ~」という話があった。ここでのニュアンスは、ひとりひとりが帝王として何をするかといった流れだが、あえて統和機構の皇帝としての「負けを認めること」ってなんだろうと考えたら、統和機構ってやっぱ人類の過剰な進化を食い止めるのが目的の組織だし、人類が進化していく(MPLSみたいな異能を持つことかどうかはよく知らない)のを受けとめることなのかな、と。人間讃歌っぽい。

 

読んでて思ったこと、というか誤読だったら恥ずかしいんだけど、パニックキュート(本物)って能力的にはともかく思想的にあんまり「世界の敵」になりそうもない人物で、ブギーさんがマロゥボーンに言った「――ぼくが殺したんだよ」っていうのは嘘である可能性大だと思う。ブギーさんなりのやさしさじゃないのかな。確かブギーポップファントムでも同様の嘘ついてた。

そうそうファントムといえば、2018年はブギーポップ20周年ということで再びTVアニメ化するらしい。おめでとうございます。発表時は「うっひょー!」と飛び上がったりしたけど、いろいろごたごたが起こったりアニメの新情報もまだそれほど出てないこともあって現在は期待半分不安半分というところ。はやくアニメ観たいよ。

 

あと、ポリモーグことポンちゃん。彼女は働かない系合成人間としてまたどこかで再登場してほしい。それからファータル・クレセント。 なんとなく最後に出てきて藤花に文句言うって立ち位置が『さびまみれのバビロン』の諸山文彦っぽく感じた。肥沃な三日月地帯ということでイマジネーター一派かな? と思ったけど、こじつけ過ぎかなとも思う。末真のムーン・リヴァーとの対比? くらいしか思いつかない。あと、フォルテッシモさんの未来行きのフラグがまた立っていた。彼にはまぁ、ほどほどに頑張ってほしい。

以上。