文章作成リハビリその3

  最近感じる堕落について。

 堕落。思い返すと、生きていることに何らかの実感=「これが楽しい、もっとこれをしたい」というような充実を得られていない、そしてそれに向けて動き出せない、虚無に感じることしかできていない、というのが原因だと思う。一つは仕事関係の悩みで、これはたまりたまっていた不満が積み重なったものかもしれないし、一時的なものかもしれない。ただ、この現状に不満があることは確かである。仕事に対して充実感を得られていないというのも、何が原因なのかはわからない。やめて他業種へ行けば解決するのか、それとも自分個人の問題なのか。問題は仕事か自分か。

 どちらにせよ、問題を解決しなければならないのは確かで、問題を解決するには一つ一つの問題を解体しシンプルに考える必要がある。最近、フィクション作品に対して、のめりこむようにはまれる作品が少ないこともそれに拍車をかけている気がする。そもそも、フィクションの選定がへたくそになったのか、単に好みに合う作品が減ってきたのか、自分の感受性が失われてきているのか、どれなのかもよくわからない。感受性が衰えたとは思いたくないが、小学生の頃に比べゲームにかじりつきそれだけを延々とやっているという状況は減った。何も考えす、ゲームのことだけを考えているような状況が。感受性というのは完全に失われるものではないと自分は考えていて、衰えたのならば磨けばよい。磨くにはどうすればいいか。まったく別のもの(自分にとって、これまで触れてこなかったジャンル、例えば美術品や芸能だろうか)に挑戦するというのもありだろう。そこで何かの「感動」を感じることができたら、そこから何かが始まる可能性がある。この道はある種、敷居が高いが乗り移ってしまえばそう難しくはない。

 そうでなければ、これまで読んできたフィクション作品(アニメ、ゲーム、小説など)をすべて忘れて、イチからスベテを組み上げる地獄の道もある。自分がこれまで触れてきた作品をすべて解体し、フラットな気持ちで新作へ挑む。とにかく数に触れる。そして、フラットで見たところに何かしら自分の琴線に引っかかる部分が見えてくる。たぶんここからが重要で、触れてきて感じた部分をこのブログのように文章に残す=記録に残す=記憶に残す といった作業が必要になると感じる。基本的にフィクションというのは体験した後は「一瞬」になる。その一瞬に何を詰込めるか。ただ読んだなという「記憶」だけが残っているのではなく、できるだけその体験を再現するかのように説明できなければならない(でないともったいない)。だから、読んだ後の「記録に残す」という作業は重要になってくる。特に自分のような記憶力に自信がない人間にとっては。