『推し、燃ゆ』宇佐見りん
久しぶりの更新です。
『解釈』することについて。
本作の主人公の推しへの『解釈』について考えたい。単行本P.18にはこうある。
「あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの世界を見たかった。」
読んでいる最中はよくわからなかったが、今では理解できる。推しを取り巻く世界を解釈すること。つまり推しと推し以外の関係性という膨大な情報をもってイデアとしての推しへの解像度(リアリティといってもいい)を高めること。『解釈』には、そういった欲求があるのではないだろうか。本物に近いが決して本物ではない(架空の)推しを作り上げるといったような。
ではなぜファンは解釈を重ねて解像度を高めるのか。
ここからは想像だけれど、その解釈が「本物」で「正しい」ものである保証がない、という不安定なところに魅力があるのではないだろうか。推しへの解釈が異なることもあるし、新しく塗り替えられることもある。その解釈へのブレも含めて「推しの世界」として解釈する。
物語の終盤でその『解釈』が揺さぶられることになる。
なぜか。推しのそばには自分よりも解像度の高い解釈する人がおり、その人には絶対に『解釈』で追いつけないと感じたから。解釈のしようがないことが表に出てきてしまった。推しへの愛はゆるがないし、いまだ自分の作り上げた解釈は自分の影と重なっている。それでも解釈に無力感を感じてしまった。そういう理由ではないだろうか。自分はそう解釈した。