文章作成リハビリその5

 バーチャルユーチューバー(Vtuber)について。

 3年、4年くらい前からインターネットに台頭してきたバーチャルユーチューバー。出てきた当初から認知はしていたが、熱心に視聴することはなかった。理由はフィクションとノンフィクションの境にいるVtuberに「茶番臭さ」を感じてしまったからだと思う。この感覚を正確に伝えるのは難しいのだが、近いものとして説明すると「フィクション上のアイドル」といった偶像に対する印象にも近い。「表」で見せているフィクションと「裏」のその偶像の本質=ノンフィクション。理想的にはフィクション部分を全力で楽しむのが正しいのだが、それと同時にノンフィクション部分を認識し冷めてしまう。これが「茶番臭さ」だ。正直に言ってしまうと今もその感覚がないわけではないのだが、楽しみ方を発見したということなのだろう。

 言ってしまうと、Vtuberというのはノンフィクション上の「フィクション」を楽しむものではない。視聴者が「フィクション」という前提を暗黙の内に理解した上で、そのVtuberの「ノンフィクション」部分を楽しむものだったのだ。ここまできてようやく自分は理解した。フィクション部分は味付け程度に過ぎず、その奥のノンフィクションが本質的なものだったのだ。ここでの本質とは「キャラクター」を楽しむと言い換えることもできて、日本の伝統的な分野では「落語」もそれにあたると考えられる。例えば落語の内容は演者によって共通していて、「演者」がどう表現するか、どう演じるか、が重要となる。「Youtuber=落語家」説が出てきた訳だが、これは当たらずも遠からずだと思う。割と人間は「キャラクター」の人格を楽しむ傾向があるのだろう。

 自分がこれまで楽しんできた「小説」「アニメ」「ラノベ」「ゲーム」等のフィクションに魅力を感じていたのは、結局のところ「そこ」なのでは?という疑義が出てきた。たしかにキャラが面白ければある程度楽しめるからね、「フィクション」とか思ったりして。では「フィクション」の本質はどこにあるのか、という問題も出てきた。そして、そこを突き止めなければ「フィクション」を本当の意味で楽しむことはできないのではないか、と思ったりして。今後もう少し考えてみる予定。